忍者ブログ
ウズベキスタンの首都・タシュケントを紹介。タシュケントの歴史、気候、観光、教育、交通機関などを簡単にまとめています。
[1] [2]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

・中央アジアで2つしかない地下鉄のある都市である(もう一つはカザフスタンのアルマトイ)。 ・独立広場にはかつてソビエト連邦でもっとも高いウラジーミル・レーニンの像(約30m)が建設されていた。レーニン像は1992年に撤去され、代わりにウズベキスタンの位置を示した地球儀の像が設置された。 ・ウズベキスタン政府、労働組合、民間の医療施設や歯科施設がある。 ・アーンスト・アンド・ヤング、デロイト トウシュ トーマツ、プライスウォーターハウスクーパース、Gravamen Fidelis、Fides LLPなどのアメリカ合衆国やヨーロッパのコンサルティング会社の事務所がある[14]。

参照元:Wikipedia「タシュケント
PR
1917年のロシア革命で一旦古い町並みが破壊され、さらに1966年のタシュケント地震で古い建物はほとんどが破壊されたため歴史ある建物は数少ない。しかし、タシュケントはソビエト連邦時代に建設されたモニュメントなどの像が多く街に残っている。ウズベキスタンの首都、および中央アジア最大の都市ということもあり、観光施設も多い。[9] ・タシュケントタワー、中央アジアで最も高い建築物である。(375メートル) ・クケルダシュ・マドラサ、ブハラ・ハン国のアブドゥッラーフ2世(英語版) (1557-1598) の治世に建設されたマドラサ。現在マー・ワラー・アンナフルイスラム会により修復作業が行われている。内部を博物館へと作り変える議論も行われているが、2013年時点ではモスクとして使用されている。 ・チョルスー・バザール、クケルダシュ・マドラサの付近に位置する。巨大な屋外バザールはタシュケント旧市街の中心的な役割を担っている。想像しうる全ての物が販売されているとされる。 ・テリャシャヤフ・モスク (ハスト・イマーム・モスク)、このモスクには世界最古のクルアーン (イスラム教の教典) とされるウスマーン写本が置かれている。殺害された第3代正統カリフ、ウスマーンの血痕が付着しているとされる。ティムールによりサマルカンドへと持ち帰られたと考えられている。トルキスタン総督府時代に一旦サンクトペテルブルクへと持ち去られたものの、1924年に再びウズベキスタンに返還された[10]。 ・ユーヌス・ハーン廟群、15世紀に建設された3つの霊廟の集合体。19世紀に修復作業が行われた。最大の霊廟はムガル帝国の創始者バーブルの祖父であった ユーヌス・ハーンの墓である。 ・ウズベキスタン外務省迎賓館 (旧称: ニコライ・コンスタンチノヴィチ・ロマノフ大公宮殿) 19世紀にアレクサンドル3世の初のいとこであったニコライ・コンスタンチノヴィチ大公はアメリカ合衆国の娼婦に唆される形でロシア帝国の宮殿から宝石を盗み出し、精神面で問題が在るとされてタシュケントへと追放された。彼の宮殿は現在も街の中心部に残っており、ウズベキスタン国立美術館として利用された後、現在はウズベキスタン外務省の迎賓館として利用されている。ソ連建築の中、イギリス風の建築は目立つ。 ・アリシェル・ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場。モスクワにあるレーニン廟と同じ設計者であるアレクセイ・シューセフにより設計された。第二次世界大戦の際、シベリア抑留により日本の軍人が多数タシュケントへと連行され、この建物の礎を築いた。 ・ヤッカサライ地区のヤッカサライ市民墓地内にタシケント抑留日本人墓地がある。ここには、太平洋戦争終戦直後、中国東北地方(満洲)や樺太に駐留していた日本兵約57.5万人が、武装解除後にソヴィエト連邦により強制的にソビエト連邦内のシベリアや中央アジアへ連行され、強制的に労働を強いられた。ウズベキスタンへはそのうち約2万3千名の日本兵捕虜が移送されウズベキスタン各地で長期的な抑留生活を送り、その間に884名が帰らぬ人となった。このヤッカサライにある日本人墓地は、タシケント地区及びウズベキスタン各地で亡くなった抑留日本人の共同墓地である。 ・「ウズベキスタンで1940年代に生活した日本人の記録」資料館がヤッカサライ市民墓地の入り口前にある。このような日本語のサインが建てられている、Jalil Sultanov氏が運営する抑留日本人に関する歴史資料館であり、抑留者がウズベキスタンで生活していた当時の写真や文書が展示されている。 ・ウズベキスタン国立美術館、世界各国の美術品約5万点の展示。主力は近世ロシアの美術品コレクション。手製の刺繍であるスーザニのような、19~20世紀の近代応用美術品とともに、ロシア帝国以前のソグディアナの壁画、仏像やゾロアスター教美術のような美術品が展示されている。より興味深いのは、タシュケントに幽閉されていたニコライ・コンスタンチノヴィチ大公が、自身の宮殿を華やかなものとするためにエルミタージュ美術館から借りて、返還されなかった絵画の大規模コレクションである。美術館の後ろには小さな公園があり、1917年のロシア革命と1919年のコンスタンチン・オシポフ(ロシア語版)の反乱で死亡したボルシェヴィキの荒れ果てた墓がある。ここにはウズベクSSR初の大統領ユルダシュ・アフンババイェフも眠っている。 ・ウズベキスタン国立応用美術館、陶芸品など、19世紀前半の美術品約7000点が展示。伝統のある施設はロシア帝国の裕福な外交官から寄付されたものであり、施設自体が主な見どころとなっている。また19~20世紀の中央アジアやロシアの応用美術品が展示されている。 ・ウズベキスタン国立歴史博物館、ウズベキスタン国内だけでなく中央アジア最古の歴史博物館である。 ・アミール・ティムール博物館、鮮やかな青のドームと東洋風の内装が非常に目を引く建物。ティムール朝時代に関する展示を行なっている他、イスラム・カリモフ大統領の展示もある。隣接するアミール・ティムール広場には馬の背に乗ったティムールの像が設置されており、付近の広い庭園と噴水は市民の憩いの場となっている。 ・ナヴォイ文学博物館、ウズベキスタン文学最大の英雄とされるアリー・シール・ナヴァーイー(アリシェル・ナヴァーイー)を記念した博物館。レプリカの著書のほか、ペルシアのカリグラフィーや15世紀のミニアチュール(英語版)などが展示されている。 ・タシュケント動物園、水族館も併設。約370種の生物が展示されている。 アミール・ティムール広場に設置されていたロシア正教会は1898年に建設されたが、2009年に取り壊された[11][12][13]。 また、タシュケント郊外のチャルヴァク湖は行楽地として有名で、マリンスポーツ、ウィンタースポーツを楽しむことができる。

参照元:Wikipedia「タシュケント
1983年時点において、タシュケント256km2圏内に住む人口は約1,902,000人であった。1991年、タシュケント在住者の人数は約2,136.600人へと増大した。タシュケントは旧ソビエト連邦内において、モスクワ、レニングラード(サンクトペテルブルク)、キエフに続く人口第4の都市となった。今日、タシュケントはCIS諸国とバルト三国を合わせた中において人口第4の都市の地位を維持している。 2012年1月1日時点のタシュケントの人口は約2,309,300人である[5][6]。 (これには100~120万人ほどの一時的な移民を含まれていると推定されている[1]。) 現在のタシュケントの民族構成はウズベク人が多数を占め、ロシア人やウクライナ人などが半数程度を占めていたソ連時代と比べるとスラブ系は激減した。また、民族調査ではウズベク人としてカウントされているタジク人も相当数いると見込まれる他、タタール人、クリミア・タタール人やアルメニア人、高麗人などで構成される多民族都市となっている。

参照元:Wikipedia「タシュケント
ケッペンの気候区分では地中海性気候に属する。夏は、7月の平均気温が27.8℃で、最高気温は40度に達する日も多く、暑さと乾燥が厳しいが朝晩は涼しくなる。冬は降水量が多く、1月の平均気温は1.9度と寒さはそれほど厳しくないため雨の場合が多いが、寒気による影響で積雪となることもある。年によってはマイナス15度前後まで下がることもあり、過去には-28.0度を記録している。年間平均気温は14.8度。年間総降水量は440mmである。

参照元:Wikipedia「タシュケント
カテゴリー
P R
Powered by ニンジャブログ  Designed by ゆきぱんだ
Copyright (c) タシュケント All Rights Reserved
忍者ブログ / [PR]